清里開拓70周年記念式典に出席しました

189011c4.JPG山梨県清里八ヶ岳区開拓70周年記念式典にお招きいただいた。

2008年11月24日朝9時に静岡を出発し、清里には11時30分くらいに到着した。

記念式典の会場は「八ヶ岳興民館」である。日本で唯一つ、「公民館」ではなく「興民館」と書く。私の祖父安池興男の「興」の字を使っていただいている。

1938年(昭和13年)に4月17日、70年前に同じ山梨県丹波山村小菅村の28戸62人の人々がこの地に移り住んだ。この人たちが何故、この地に移り住んだかである。

当時の「東京市」の人口増加に伴い、飲料水の確保が急務となり、多摩源流の「小河内村」がダム建設の候補地となった。東京市と小河内村の用地交渉に引きずられるように「丹波山村」「小菅村」も現在の小河内ダムの下に水没する村となっていった。当時の大恐慌の為に農村は疲弊し、本当に厳しい時代に、ダムの補償で借金が返済されるのならと考えた人も多かったとの事である。

この小河内ダム建設計画とはまったく関係なく、昭和11年8月に祖父興男は山梨兼営八ヶ岳開墾事務所長に任命された。こちらの人たちが丹波山村小菅村から入植される2年くらい前のことだ。ダム建設が昭和12年1月11日小河内ダム工事起工式が行われた。昭和12年同1月16日土地買収価格発表となるが、あまりに安い見積もりに村民反発したが、貧しさの中に訴訟をして戦う資金もなく、転出を考える。

昭和12年6月東京市山梨県が、八ヶ岳開拓の計画があるのを調べ、この清里の開墾計画を、視察に訪れた。祖父が開墾事務所長をしており、その案内をしたようだ。それから、同年7月、小河内ダム水没の村である小河内村の人達が視察に訪れたが、こんなところではとてもだめだと言って帰った。続いて9月に丹波山村小菅村の人達が視察に訪れたが、小河内村の人達とは違い、真剣に清里の地形、風向き、日照などの状況を視察した。

この丹波山村小菅村の視察の様子から脈ありと見た祖父は翌月10月に丹波山村を訪れ、酒井村長宅で詳しい入植条件を村民に提示した。そこから村民の真剣な話合いが始まるが、新天地に対する不安が拭い去れずに、結論まではなかなか届かなかった。

翌13年3月に再度、丹波山村村長を訪問した。同席した東京市の職員は小作料の3年間負担を東京市がすると申し出る。だが、凶作の不安を持つ人々は5年負担をして欲しいと譲らなかった。その時、祖父が「開拓3年以上にわたって経営の見通しのつかないような事業は、私達は計画いたしません。それを5年の補償にこだわるような建設意欲のない農家の入植は、私達は指導上、見通し困難と思わざるをえませんな。」と伝えたそうだ。村人達はこの祖父の顔を見やった。言葉は穏やかだが、言うことは厳しい。村人達は驚いてこの一言で態度を決めさせたというお話であった。

昭和13年4月15日に安池興男開墾事務所長に1本の電話が入る。丹波山村の代表である。「決めました。翌17日に入植します。」今度は祖父のほうが驚かされた。余りに唐突で、迎える側としての準備の時間もないからだ。「待ちなさい。入植をきめてから、しばらくの間時間をくれなければ。こちらの受け入れ態勢も整わない。」「いえ、もう待てません。どうしても17日に行かせてください。」とのやり取りだ。耕作を放棄し、わずかな補償料しか得られないと分かった貧しい人々たちはもう一刻の猶予もない状況に追い込まれていたのだ。

丹波山村小菅村の人々は昭和13年4月17日、甲府駅で安池興男開墾事務所長に迎えられ、清里に入植したのであった。この4月17日を八ヶ岳区の人達は「入植記念日」として大切に春祭りを行っている。今年は、この昭和13年から数えて70周年となる年であり、記念行事が行われたのである。
私は、この入植70周年記念式典に安池興男の子孫(孫)として招待を受け、参列させていただいた。

f0fda648.jpeg私自身、祖父を尊敬している。祖父は私が17歳まで生きていたが、厳格な人であった。
この清里の事業を入植者の皆様と苦楽を共にして得た経験が、祖父興男の晩年生きる支えになっていたように振り替える。参列させていただくに当たり、「清里開拓物語:著者は岩崎正吾氏・山梨ふるさと文庫発行」の本を1冊熟読し、更に模造紙に図式化して(写真)、今回私の長男にも、祖父興男が心血を注いだ清里の開拓の歴史を伝えることとした。長男も事前に歴史を勉強させていったせいか、参列者(入植者のご家族の皆様)からのお話の意味も少し理解できたと思う。

入植後も水を確保することに苦しんだそうである。東京市の住民の飲料水確保の為に、村を出た人達の飲料水は保障されていなかったわけである。毎日、寒い冬でも天秤棒を担いで、水を家まで運ぶ苦労は経験した人でないと分からないであろうと私も想像する。子供達も遠く離れた小学校に通うのに命がけだ。学校についてからは「移住民の子」といっていじめられたそうである。農作物が思うように育たないとかの苦しみのほかにも、さまざまな苦労を余儀なくされた。

親達はみんなで小学校(分教場)を建設しようとするが、建設費の資金調達の問題や、いざ建設にかかっても材料を持ち逃げされそうになったり、幾多の困難を乗り越えて「分教場」が建設された。この際に建設資金の一部が不足し、静岡の安池米雄(9代で興男の義理の父)に安池興男(10代)が資金を借りるお願いに来て3000円貸してもらった。このお金は清里の人達の努力で5年間で完済した。

この分教場建設は開拓の人達の悲願であったために、万一この建設計画が未達成に終わると、この開拓自体の士気が崩れると祖父は開墾事務所長として判断したのであろう。この学校建設の達成が大きなターニングポイントではなかったのだろうかと私は推測する。

興男は今で言う農林水産省の役人で各県庁に転勤していったわけであるが、清里開拓の前途多難な時期に広島県への栄転を「清里開拓に目処が立つまでは・・・」といい、断っている。この栄転の話を断ってから次第に本当の人と人との信頼関係が深まっていく。自分自身の給料をはたいて、農作物の肥料を購入し開拓の人達に分け与えたり、分教場建設後も人々が手を合わせるところが必要だということから、廃社となっていた社を移築し、神社をお祀りしたりしている。また、みんなで協力し合い、共同作業をしていくことが大切であるという祖父のアドバイスを今も清里の人達は大切に守っている。

開拓が軌道に乗り、何とかやっていける見通しも立ったころ、今度は奈良県への転勤の話が来た。この時期、祖父は、官僚の世界に嫌気がさしていたが、戦火を拡大する日本にとって食糧増産は急務であり、しばらく国の食糧増産に尽くそうという気持ちで新たな勤務地でも開墾事業を担当する耕地課長として任に就いた。

戦後、開拓の人達のリーダー的存在であった酒井久重さんが静岡安池宅を訪ね、清里の人達とのお付き合いが再度深まっていく。開拓の人々は安池興男祖父を今でも大切にしてくださっている。「恩渉の碑」と彫った墓を入植者の共同墓地の中心に作ってくださり、そこに静岡から祖父と祖母の骨が分骨されている。赤穂の四十七士の墓のようである。苦楽を共にした仲間が天国へ行っても同じ場所にいるといった光景だ。

また、興男が静岡へ帰ってから知り合った山田博幸さんが清里に移り住み、この地でなくてはならない人になっている。山田さんは第一勧業銀行の銀行員であったが、祖父と知り合い感銘を受け、この地に「ペンションハート」という清里ペンションの第1号を建てその後の生涯をこの地にささげることになった方である。清里の歴史をしっかり整理して、後世に伝えることにおいてこの方の役割と功績はこの地において非常に高いと感じた。

この山田博幸さんが私達を翌日案内してくださったが、共同墓地の中に私も墓地を購入したんです。といって嬉しそうに私達を案内してくださった。見れば、祖父が眠る墓の真後ろにその墓地を購入したのである。私はまた、目頭が熱くなった。身内である祖父をこれほどまでに愛し大切にしてくれる人がこの清里には居る。死んでからもみんな一緒にいたい人達の集まりであり、墓を並べることで、永遠の仲間で居られる姿となった。

その墓は遠く、丹波山村小菅村の方角を向き、その視界には祖父の故郷である静岡も入っている。熱い思いを胸に翌日静岡へ帰った。

48d6906b.JPGこの70周年の取りまとめをされた酒井治孝氏。戦後、祖父を静岡まで尋ねた酒井久重氏の息子さんである。

今、この人がリーダーとなり、開拓の精神を後世に伝えている。







ff9c6003.JPG先ほど、上で記した山田博幸さんから、「興民館」の言われの話が伝えられた。山田さんは清里にとってかけがえのない人になっている。興男祖父も人を見る目が高かったのか、山田さんの人を見る目が高かったのか、いずれにせよ素晴らしい出逢いが今日の清里を支える人を作り、良い結果をもたらしている。





3b071bd8.JPG私もご指名に預かり、一言ご挨拶を述べさせていただいた。
写真の左上には祖父興男の肖像画がかけられて、この幕が上がった時にも私の目頭が熱くなった。

清里で祖父がこうして大切にしていただいていること感じ、私自身も人生の中で、「出生の本懐」とも言える仕事を成し遂げたいという気持ちを持った。

なかなかそのような仕事にはめぐり合えないであろう。しかし、地道に自らの価値観に基づいて行動していくことであろうとも思ったのであった。

a4a94172.JPG根津吉夫さんが興男の読んだ詩を詩吟していただいたのも、私の心に響いた。

その他、婦人部のコーラスや小中学生のバレエの発表、詩の朗読など、皆さん思い思いの形でこの70周年記念行事を盛り上げていた。

今回の清里行きは私や家族にとって本当に心を揺さぶることの多い2日間となった。